--年--月--日 --:--
2009年05月01日 17:36
ようやく、WEBにのせれるぐらいのHPが出来ましたー。
月末予定だったので、1日遅れ、気分的にはセーフじゃないでしょうか。
これ↓
cpg:canary production gallery(カナリアプロダクションギャラリー)
注意:MACで見るとがたがたらしいです。
これをベースに更新していくので
不具合とかありましたら、連絡ください。
それにしても俄然コマーシャルっぽくなりました。
作品は生で見るのが一番いいのはもちろんですが、このようにWEBで個々の作品と展示風景と、過去作品、履歴を見れると作家に対する愛着がわきますからね。
ちなみにとある外国のギャラリーを参考にしていますので、元ネタがわかってもそれぞれの心のうちに仕舞っておいてください。
月末予定だったので、1日遅れ、気分的にはセーフじゃないでしょうか。
これ↓
cpg:canary production gallery(カナリアプロダクションギャラリー)
注意:MACで見るとがたがたらしいです。
これをベースに更新していくので
不具合とかありましたら、連絡ください。
それにしても俄然コマーシャルっぽくなりました。
作品は生で見るのが一番いいのはもちろんですが、このようにWEBで個々の作品と展示風景と、過去作品、履歴を見れると作家に対する愛着がわきますからね。
ちなみにとある外国のギャラリーを参考にしていますので、元ネタがわかってもそれぞれの心のうちに仕舞っておいてください。
2009年04月16日 19:52
ヘルメス、1992、NO42
エラスムスは、聖なるものは人間の思考に重要であると指摘しています。 山口昌男
中沢新一の芸術人類学に通じるものがありますね。
芸術(=宗教)が動物と人間とを分け隔てるものだ、という話し。
非直線的な世界、開いた世界
例えば砂の堆積にある法則性があるとしても
顕微鏡でそれをのぞけば、砂の分子の不規則な、無秩序な運動があるだけ。
しかしその外部世界には物理法則、とりわけ重力があり、その運動を秩序立てている。 アショク・ジャイン
例えば人間の連続していると思われている生、記憶なども、その実体に根拠がなくても、外部の何かによって連続性を保っているように見えている。現状としては不連続なのに。逆に、外部との関連性によって、マクロな視点によって不連続に思えるものにもある構造が見えてくる。
芸術ならば、、、どうだろうか。
サワラギノイのいっていた悪い場所は、その根拠のなさ、あるいは立脚点を捏造したことへの無反省から、何をしても時代はただ繰り返すという、閉じられた円環のことを言っていたと思うのだが、それを打ち壊すきっかけにはならないだろうか。
不連続ではあるが、いやそのことによって繰り返している悪い場所を断ち切るために、その世界の外部、開かれた世界の外部、マクロな視点(例えば何??)を導入する。西欧美術との緊張感?アメリカ?それでは一緒か。
物理世界は、人間社会と無縁なものとしては、決して理解し得ない
(中断)
エラスムスは、聖なるものは人間の思考に重要であると指摘しています。 山口昌男
中沢新一の芸術人類学に通じるものがありますね。
芸術(=宗教)が動物と人間とを分け隔てるものだ、という話し。
非直線的な世界、開いた世界
例えば砂の堆積にある法則性があるとしても
顕微鏡でそれをのぞけば、砂の分子の不規則な、無秩序な運動があるだけ。
しかしその外部世界には物理法則、とりわけ重力があり、その運動を秩序立てている。 アショク・ジャイン
例えば人間の連続していると思われている生、記憶なども、その実体に根拠がなくても、外部の何かによって連続性を保っているように見えている。現状としては不連続なのに。逆に、外部との関連性によって、マクロな視点によって不連続に思えるものにもある構造が見えてくる。
芸術ならば、、、どうだろうか。
サワラギノイのいっていた悪い場所は、その根拠のなさ、あるいは立脚点を捏造したことへの無反省から、何をしても時代はただ繰り返すという、閉じられた円環のことを言っていたと思うのだが、それを打ち壊すきっかけにはならないだろうか。
不連続ではあるが、いやそのことによって繰り返している悪い場所を断ち切るために、その世界の外部、開かれた世界の外部、マクロな視点(例えば何??)を導入する。西欧美術との緊張感?アメリカ?それでは一緒か。
物理世界は、人間社会と無縁なものとしては、決して理解し得ない
(中断)
2009年04月11日 17:34
いや、実際は玉砕以前で、コアなところには全然踏み込めませんでした。
自己紹介して、ギャラリーのスタンスをちょっと説明して、オプアートについてちょっとしゃべって、それくらいかな。村上隆のアトリエに行った帰り、最近村上隆の事を書かないのは何か意識しているのか、という質問をしたが、いや別にそういうわけではないんだけどね、というくらいの返答。本当は、村上が現在やっていることがもしつまらなくなっていると思うんであれば、それを書くのが、サワラギノイの今やるべき一番の仕事だと思うんだが、という事を僕は言いたかったのだが、なんかうまい事いきませんでした。
批評の役割なども、話したかったですね。浅田彰とサワラギノイの対談で、作家の固有名がアートにとって必要かどうかという議論があったのだが、それは批評の問題としてとても重要だと思うのです。最近、福住廉が「今日の限界芸術」(?だったかな)という本を出したのですが(僕はまだ読んでいません)。おそらくそこでは、芸術が生まれる場所の話しをしていると思う。浅田彰は芸術は、あくまでも芸術史に対して意識的である、アーティストによってしか生まれ得ないと思っているし、しかしさわらぎや福住は、芸術はすでにそこにあるもので、芸術家の存在は、それを見つけることにあるんではないかと思っている。(完全に僕の独断と偏見と感覚で書いているので、信じなくていいです。)
で、僕は判断を保留している。
もし、アーティストの役割が、既にそこにある芸術を見つけるという点にあるのであれば、批評を書いている、さわらぎや、福住や、そして僕もアーティストと言えることになる。
批評が一番の芸術であるか?
ここらへんが僕の中でぐちゃぐちゃしているので、さわらぎのいとここらへん話したかったですね。もうちょっと僕の立ち位置が整理されたら話すことも出来るかもしれません。
以上反省でした。
それにしても、山下裕二とさわらぎのいと榎忠(と若木くるみもね)が並んでソファに座っている姿は感慨深いものがありましたね。うただひかると話した花岡君の気持ちが良く分かります。
さわらぎのいは現在、夏ぐらいに出す本の校正?をしている模様。楽しみです。
櫻岡
自己紹介して、ギャラリーのスタンスをちょっと説明して、オプアートについてちょっとしゃべって、それくらいかな。村上隆のアトリエに行った帰り、最近村上隆の事を書かないのは何か意識しているのか、という質問をしたが、いや別にそういうわけではないんだけどね、というくらいの返答。本当は、村上が現在やっていることがもしつまらなくなっていると思うんであれば、それを書くのが、サワラギノイの今やるべき一番の仕事だと思うんだが、という事を僕は言いたかったのだが、なんかうまい事いきませんでした。
批評の役割なども、話したかったですね。浅田彰とサワラギノイの対談で、作家の固有名がアートにとって必要かどうかという議論があったのだが、それは批評の問題としてとても重要だと思うのです。最近、福住廉が「今日の限界芸術」(?だったかな)という本を出したのですが(僕はまだ読んでいません)。おそらくそこでは、芸術が生まれる場所の話しをしていると思う。浅田彰は芸術は、あくまでも芸術史に対して意識的である、アーティストによってしか生まれ得ないと思っているし、しかしさわらぎや福住は、芸術はすでにそこにあるもので、芸術家の存在は、それを見つけることにあるんではないかと思っている。(完全に僕の独断と偏見と感覚で書いているので、信じなくていいです。)
で、僕は判断を保留している。
もし、アーティストの役割が、既にそこにある芸術を見つけるという点にあるのであれば、批評を書いている、さわらぎや、福住や、そして僕もアーティストと言えることになる。
批評が一番の芸術であるか?
ここらへんが僕の中でぐちゃぐちゃしているので、さわらぎのいとここらへん話したかったですね。もうちょっと僕の立ち位置が整理されたら話すことも出来るかもしれません。
以上反省でした。
それにしても、山下裕二とさわらぎのいと榎忠(と若木くるみもね)が並んでソファに座っている姿は感慨深いものがありましたね。うただひかると話した花岡君の気持ちが良く分かります。
さわらぎのいは現在、夏ぐらいに出す本の校正?をしている模様。楽しみです。
櫻岡
2009年04月11日 17:18
1、経理
2、コマーシャルギャラリーらしいホームページ
3、東京でやる展示の企画
4、アートフェアのリサーチ
やはり今年中にアートフェアでたい。
というか出る必要がある。
大阪、東京、台湾、中国、韓国、どうする?
4月中にリサーチをするべき。
東京のアートフェア行って思ったけど、現在のCPGの全力でやれば
かなり面白い展示というか、ブース作りが出来るんではないだろうか。
現在売れているものとの整合性を保ちつつ、何か違和感を発生させるような。
あと東京の渋谷にあるアップリンクというカウンターカルチャーの巣窟みたいな場所で展示するチャンスがありそうです。企画しだいですが。これぞ超能力、これぞCPG、これぞ関西みたいなのりでやりたいですね。
2、コマーシャルギャラリーらしいホームページ
3、東京でやる展示の企画
4、アートフェアのリサーチ
やはり今年中にアートフェアでたい。
というか出る必要がある。
大阪、東京、台湾、中国、韓国、どうする?
4月中にリサーチをするべき。
東京のアートフェア行って思ったけど、現在のCPGの全力でやれば
かなり面白い展示というか、ブース作りが出来るんではないだろうか。
現在売れているものとの整合性を保ちつつ、何か違和感を発生させるような。
あと東京の渋谷にあるアップリンクというカウンターカルチャーの巣窟みたいな場所で展示するチャンスがありそうです。企画しだいですが。これぞ超能力、これぞCPG、これぞ関西みたいなのりでやりたいですね。
2009年04月11日 17:06
花岡伸宏個展に合わせて書きました、批評文を公開します。
ネタばれ、というか、本来は作品を見る前に文章を読むべきではないと思うのですが、もう見られた方、見にこられない方の為にここにアップします。
↓
花岡伸宏
「重さ」と「軽さ」
彫刻は絵画と違い、触覚的であり、且つ三次元的で、鑑賞者と同じ空間に存在しているリアルなものである。それは、我々と同じようにどこまで行っても重力から逃れられない。「重い」ものである。
そして左肩は、ずれ落ちる。
ウサギを抱いた少女がそこには立っている。ウサギの目は獰猛かつ虚ろだが、少女はその白く柔らかい動物に頬を寄せ、しかし何の関心もなさそうに微笑を浮かべている。そして彼女の左肩はずれ落ちる。周りの群集をよそに、少女だけがそれに気付いていない。けがれ無く、世界の何に対しても疑いを知らぬ表情。もしもこれが広島の路上においてあれば「祈り」とでも名づけられていたのではないだろうか。あるいは「平和」とでも。
これが第2の「重さ」。
花岡伸宏は広島で生まれ、広島で育った。本人がその事と作品の関連性を積極的に語ることは無いのだが、僕は無縁ではないと思っている。過去の作品で執拗にモチーフとされている「仏像」「母子」「米」それらが広島から生まれたというのは言いすぎであるが、日本という国の普遍的な土着イメージであることは間違いない。倫理観と言い換えてもいい、農耕民族である日本人特有の、見えざるイデオロギーとしての宗教心。「母親に手を上げるなんて。」や「お米を残すと目がつぶれる。」それは、当たり前すぎて、例えば「人を殺してはいけません。」という感覚に似ている。
そして今回のモチーフが、「ウサギを抱いた少女」である。戦前、戦後という区別が一般的であるように、日本において第2次世界大戦、とりわけ広島に落とされた原子爆弾の影響が日本人の思想、共通イメージを作り上げているのは言わずもがなだ。そして、その反動として生まれた、なによりも「平和」を重んじる戦後教育。今回の個展において、今まで彼が作品のコアとして用いてきた、「仏像」「米」に代表される日本のイメージは、深化し、「広島」あるいは「平和」という日本の特異点へと着地した。彼にとって、そして我々にとって、原点にして、最果ての地。
何故彼がこういったある種日本的なイメージをもちいるのか。それは彼の作品が「重さ」と「軽さ」の振り子を軸としているからである。
ある種の感動は、シリアスとユーモアのギャップに存在する。映画を例に挙げると、名作と名高いライフイズビューティフルなどがわかりやすいだろうか。ユダヤ人の強制収容所に送り込まれた主人公家族、とても笑えるような状況ではないシリアスな場面で主人公が見せるユーモア、それが鑑賞者の感動を喚起する。笑いたいと泣きたいが同時に存在するようなアンビバレンツな状況がそこにはある。それと同様に彼の作品で見られる、「仏像」=仏教、「米」=アミニズム、神道、「母子」=家族、儒教、「ウサギを抱いた少女」=平和、戦後日本、が持つ本質的な「重さ」と現在的な(日本人の意識や生活、しきたりに内在化されていてその本来的な意味を失っているという意味の、)「軽さ」はすでにここに同時に存在していて、そして振り子のように往還運動をしている。振り子はその両極が遠ければ遠いほど、中心部の速度は速くなる。ギャップは深くなる。これが作品のモチーフの内部にある「重さ」と「軽さ」である。
そして、この作品にはもうひとつの「重さ」と「軽さ」の層がある。それはモチーフをどう扱うかといった、表現方法の、表面的な「重さ」と「軽さ」である。
彫刻が依存する重力的、つまりは彫刻という芸術がそのジャンルの誕生からずっと抱え込んできた問題としての「重さ」と、「平和」というモチーフが備え持つ同時代的、本質的「重さ」、そのふたつのいわばシリアスな「重さ」と、すべり落ちた左肩が米に刺さる事のある種ユーモアとして表現される、もしくは無自覚的に表現されているように見える「軽さ」である。ある人はこれをギャグと呼ぶ。ナンセンスでもいいかもしれない。しかしこれは、この作品がギャグであるという意味ではなく、すべり落ちた、左肩が、飯に、刺さる。というその言葉が、イメージが、状況が、ギャグなのであり、表現方法としての「軽さ」になっているということである。最近、chim↑pomというDQNアーティスト集団(言い換えると「ヤンキー」、関西で言う「やから」)が広島の空に、「ピカッ」という文字を飛行機の煙によって出現させて話題となったが、彼らの手法、表現方法にも似たものがある。シリアスな問題を、あえて、ギャグとして、ノリで、ユーモアとして、人々の嫌悪感を煽るようなやり方で表現してしまう。そして大人達は眉をひそめる。「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない。」
先の映画の例であげたように、ある種の感動はシリアスとユーモアの間に存在する。そして、彼の芸術は「重さ」と「軽さ」の間に存在する。
モチーフの内部に存在する「重さ」と「軽さ」。
モチーフの、あるいはファインアートとしての「重さ」と表現方法の「軽さ」。
この2層にわたる「重さ」と「軽さ」の往復運動が、彼の作品を、ひどく特異な、そして芸術としか呼ぶことの出来ないものにしている事は間違いない。逆に言うとこの「重さ」と「軽さ」の極端な振り子を持ちえないものは、彼に言わせれば、単なるつまらないギャグとなってしまうのだ。
何故左肩がずれ落ちなければならないのか。
それはやはり「重さ」と「軽さ」の象徴でしかないのだが、それでも、大人達は言うだろうか。
「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない」と。
CPG代表 櫻岡聡

******
まだ批評と呼べるものではなく、解説の域を出ていない、つたない文章ではありますが
読んでいただきありがとうございます。
感想、批判、反論、受け付けます。櫻岡
ネタばれ、というか、本来は作品を見る前に文章を読むべきではないと思うのですが、もう見られた方、見にこられない方の為にここにアップします。
↓
花岡伸宏
「重さ」と「軽さ」
彫刻は絵画と違い、触覚的であり、且つ三次元的で、鑑賞者と同じ空間に存在しているリアルなものである。それは、我々と同じようにどこまで行っても重力から逃れられない。「重い」ものである。
そして左肩は、ずれ落ちる。
ウサギを抱いた少女がそこには立っている。ウサギの目は獰猛かつ虚ろだが、少女はその白く柔らかい動物に頬を寄せ、しかし何の関心もなさそうに微笑を浮かべている。そして彼女の左肩はずれ落ちる。周りの群集をよそに、少女だけがそれに気付いていない。けがれ無く、世界の何に対しても疑いを知らぬ表情。もしもこれが広島の路上においてあれば「祈り」とでも名づけられていたのではないだろうか。あるいは「平和」とでも。
これが第2の「重さ」。
花岡伸宏は広島で生まれ、広島で育った。本人がその事と作品の関連性を積極的に語ることは無いのだが、僕は無縁ではないと思っている。過去の作品で執拗にモチーフとされている「仏像」「母子」「米」それらが広島から生まれたというのは言いすぎであるが、日本という国の普遍的な土着イメージであることは間違いない。倫理観と言い換えてもいい、農耕民族である日本人特有の、見えざるイデオロギーとしての宗教心。「母親に手を上げるなんて。」や「お米を残すと目がつぶれる。」それは、当たり前すぎて、例えば「人を殺してはいけません。」という感覚に似ている。
そして今回のモチーフが、「ウサギを抱いた少女」である。戦前、戦後という区別が一般的であるように、日本において第2次世界大戦、とりわけ広島に落とされた原子爆弾の影響が日本人の思想、共通イメージを作り上げているのは言わずもがなだ。そして、その反動として生まれた、なによりも「平和」を重んじる戦後教育。今回の個展において、今まで彼が作品のコアとして用いてきた、「仏像」「米」に代表される日本のイメージは、深化し、「広島」あるいは「平和」という日本の特異点へと着地した。彼にとって、そして我々にとって、原点にして、最果ての地。
何故彼がこういったある種日本的なイメージをもちいるのか。それは彼の作品が「重さ」と「軽さ」の振り子を軸としているからである。
ある種の感動は、シリアスとユーモアのギャップに存在する。映画を例に挙げると、名作と名高いライフイズビューティフルなどがわかりやすいだろうか。ユダヤ人の強制収容所に送り込まれた主人公家族、とても笑えるような状況ではないシリアスな場面で主人公が見せるユーモア、それが鑑賞者の感動を喚起する。笑いたいと泣きたいが同時に存在するようなアンビバレンツな状況がそこにはある。それと同様に彼の作品で見られる、「仏像」=仏教、「米」=アミニズム、神道、「母子」=家族、儒教、「ウサギを抱いた少女」=平和、戦後日本、が持つ本質的な「重さ」と現在的な(日本人の意識や生活、しきたりに内在化されていてその本来的な意味を失っているという意味の、)「軽さ」はすでにここに同時に存在していて、そして振り子のように往還運動をしている。振り子はその両極が遠ければ遠いほど、中心部の速度は速くなる。ギャップは深くなる。これが作品のモチーフの内部にある「重さ」と「軽さ」である。
そして、この作品にはもうひとつの「重さ」と「軽さ」の層がある。それはモチーフをどう扱うかといった、表現方法の、表面的な「重さ」と「軽さ」である。
彫刻が依存する重力的、つまりは彫刻という芸術がそのジャンルの誕生からずっと抱え込んできた問題としての「重さ」と、「平和」というモチーフが備え持つ同時代的、本質的「重さ」、そのふたつのいわばシリアスな「重さ」と、すべり落ちた左肩が米に刺さる事のある種ユーモアとして表現される、もしくは無自覚的に表現されているように見える「軽さ」である。ある人はこれをギャグと呼ぶ。ナンセンスでもいいかもしれない。しかしこれは、この作品がギャグであるという意味ではなく、すべり落ちた、左肩が、飯に、刺さる。というその言葉が、イメージが、状況が、ギャグなのであり、表現方法としての「軽さ」になっているということである。最近、chim↑pomというDQNアーティスト集団(言い換えると「ヤンキー」、関西で言う「やから」)が広島の空に、「ピカッ」という文字を飛行機の煙によって出現させて話題となったが、彼らの手法、表現方法にも似たものがある。シリアスな問題を、あえて、ギャグとして、ノリで、ユーモアとして、人々の嫌悪感を煽るようなやり方で表現してしまう。そして大人達は眉をひそめる。「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない。」
先の映画の例であげたように、ある種の感動はシリアスとユーモアの間に存在する。そして、彼の芸術は「重さ」と「軽さ」の間に存在する。
モチーフの内部に存在する「重さ」と「軽さ」。
モチーフの、あるいはファインアートとしての「重さ」と表現方法の「軽さ」。
この2層にわたる「重さ」と「軽さ」の往復運動が、彼の作品を、ひどく特異な、そして芸術としか呼ぶことの出来ないものにしている事は間違いない。逆に言うとこの「重さ」と「軽さ」の極端な振り子を持ちえないものは、彼に言わせれば、単なるつまらないギャグとなってしまうのだ。
何故左肩がずれ落ちなければならないのか。
それはやはり「重さ」と「軽さ」の象徴でしかないのだが、それでも、大人達は言うだろうか。
「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない」と。
CPG代表 櫻岡聡

******
まだ批評と呼べるものではなく、解説の域を出ていない、つたない文章ではありますが
読んでいただきありがとうございます。
感想、批判、反論、受け付けます。櫻岡
2009年04月03日 02:06
オーナーさんと御飯を食べながらギャラリーの今後の話しをしていた。
まあ、一年コマーシャルギャラリーっちゅうものを
ぶれぶれしながらもなんとかやっては来ているのだが
まあいろいろ問題はありますよね。
基本的には金の問題。経営的な問題がやはり一番で
面白いことやりたいのはもちろんだけど、ただ面白いだけでは物事は続かない。
しかし金の為にやるのであれば
芸術に関わる必要はない。というか芸術でそれをやりたくない。
もし、金欲しさのあまりにレンタルをやるんだったら
まだタクシーの運転手やる方がましです。(運転手をバカにしているわけではなく、適当な例です。)
さてさてどうしようかね。
何か突破口はあるはず。だー!
まあ、一年コマーシャルギャラリーっちゅうものを
ぶれぶれしながらもなんとかやっては来ているのだが
まあいろいろ問題はありますよね。
基本的には金の問題。経営的な問題がやはり一番で
面白いことやりたいのはもちろんだけど、ただ面白いだけでは物事は続かない。
しかし金の為にやるのであれば
芸術に関わる必要はない。というか芸術でそれをやりたくない。
もし、金欲しさのあまりにレンタルをやるんだったら
まだタクシーの運転手やる方がましです。(運転手をバカにしているわけではなく、適当な例です。)
さてさてどうしようかね。
何か突破口はあるはず。だー!
2009年04月03日 01:38
タイトルに全てを書いてしまったので
とりわけ言うことも無いのだが、もう少し説明をすると、
今日が4月3日で、今晩から東京に行って来ます。
で帰るのが、4月9日(木)。
だからその間、ギャラリーもBARもお休み。
次の展示は 【花岡伸宏個展】
要チェックやわー!!

・・・・・・・・・・・・・・・・
花岡伸宏個展
「ずれ落ちた左肩は飯に刺さる」
2009年4月10日(金)〜5月2日(土)
13:00-20:00
日・月休廊
入場無料
オープニング 4月10日(金)20:00
この度、CPG:canary production galleryでは
第12回岡本太郎賞特別賞を受賞し、活躍の場を広げている
花岡伸宏の個展を開催いたします。
岡本太郎賞の審査員をもってして
「こんなテーマが芸術になりうるということに驚きを隠せない」
と言わしめた彼の作品を是非ご高覧ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・
今彼を見ないで誰を見るんだ、と思っています。(櫻岡)
CPG/BAR超能力
代表櫻岡聡
sakuraoka02@hotmail.com
〒602-8148 京都市上京区西丸太町185
京都二条ハイツ地階
tel/fax.075-821-3180
CPGweb http://kikenpro.sakura.ne.jp/
とりわけ言うことも無いのだが、もう少し説明をすると、
今日が4月3日で、今晩から東京に行って来ます。
で帰るのが、4月9日(木)。
だからその間、ギャラリーもBARもお休み。
次の展示は 【花岡伸宏個展】
要チェックやわー!!

・・・・・・・・・・・・・・・・
花岡伸宏個展
「ずれ落ちた左肩は飯に刺さる」
2009年4月10日(金)〜5月2日(土)
13:00-20:00
日・月休廊
入場無料
オープニング 4月10日(金)20:00
この度、CPG:canary production galleryでは
第12回岡本太郎賞特別賞を受賞し、活躍の場を広げている
花岡伸宏の個展を開催いたします。
岡本太郎賞の審査員をもってして
「こんなテーマが芸術になりうるということに驚きを隠せない」
と言わしめた彼の作品を是非ご高覧ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・
今彼を見ないで誰を見るんだ、と思っています。(櫻岡)
CPG/BAR超能力
代表櫻岡聡
sakuraoka02@hotmail.com
〒602-8148 京都市上京区西丸太町185
京都二条ハイツ地階
tel/fax.075-821-3180
CPGweb http://kikenpro.sakura.ne.jp/
2009年03月27日 03:03
ミクシには書いたのですが
4月4日に若木くるみとさわらぎのいと榎忠とランチをする
という恐ろしい予定があります。
僕は一体御飯を食べることが出来るのでしょうか。
榎忠さんは何度かお会いして布団を並べて寝たこともあるので
(会うといつも緊張するのですが)まだだいじょうぶなのですが
問題はさわらぎのいです。誤解を恐れずに言うと僕のアイドルですから。
このブログのずっと前、おそらく2年前とかに
日本・現代・美術を読んでる頃の日記とか書いていると思うんですが
僕が美術を勉強しようと思い、アマゾンで始めて注文した本がそれなんです。
だからものすごく影響受けています。
彼の本を読み、若木くるみの作品(榎忠氏にオマージュをささげた「全刈りなのにハンガリー」)に出会い、二人で榎忠の展覧会で手紙渡して、企画展に参加してもらって、今、さわらぎのいが審査員をしている岡本太郎賞で若木くるみが大賞をもらい、さわらぎのいと若木くるみと榎忠とランチをする。
現代美術に手を染め2年。なんか、一周したな、という感じです。
運が良い男です。
本当にこれが現実となるのかまだわかりませんが
そのときがきたらまたレポートします。では
批評家見習い 櫻岡聡
4月4日に若木くるみとさわらぎのいと榎忠とランチをする
という恐ろしい予定があります。
僕は一体御飯を食べることが出来るのでしょうか。
榎忠さんは何度かお会いして布団を並べて寝たこともあるので
(会うといつも緊張するのですが)まだだいじょうぶなのですが
問題はさわらぎのいです。誤解を恐れずに言うと僕のアイドルですから。
このブログのずっと前、おそらく2年前とかに
日本・現代・美術を読んでる頃の日記とか書いていると思うんですが
僕が美術を勉強しようと思い、アマゾンで始めて注文した本がそれなんです。
だからものすごく影響受けています。
彼の本を読み、若木くるみの作品(榎忠氏にオマージュをささげた「全刈りなのにハンガリー」)に出会い、二人で榎忠の展覧会で手紙渡して、企画展に参加してもらって、今、さわらぎのいが審査員をしている岡本太郎賞で若木くるみが大賞をもらい、さわらぎのいと若木くるみと榎忠とランチをする。
現代美術に手を染め2年。なんか、一周したな、という感じです。
運が良い男です。
本当にこれが現実となるのかまだわかりませんが
そのときがきたらまたレポートします。では
批評家見習い 櫻岡聡
2009年03月27日 02:52
argosという展覧会レヴューサイトみたいなものをやっている。
書き手は私を含め数名。
今週から、展覧会に星で評価を付け始めた。
これはどういうことか。
展覧会や作品それ自体を5段階評価で表すことはとても暴力的です。
そしてリスクが伴います。
だからやり始めました。
リスクの取れない言論活動なんて僕は意味がないと思う。
あとつけくわえるのであれば
展覧会を評価の対象とする、コンペがあればいいのになと最近思うんですね。
写真集に対して評価がなされる賞があるのかどうか知らないですけど
(木村伊兵衛賞は、写真集を含む写真活動らしい)
日本の芸術の賞に限って言えば見たこと無いですね。
レンタルで金払って展示する人にもっと緊張感を持って欲しいなと
思うんです。売れる作品と面白い作品は違うのですから
売れなかったから駄目ではなく、売れなくても面白いもん作る人に
なおかつ、面白い展示する人に何らかの評価がついていいと思うんですが
まあ関西では評価は口コミ程度で、スピードも遅い。
現代美術のスピードの遅さは致命的じゃないか。
なんか漠然と書いていますが、そんな理由です。
現在の批評サイトですこしづつやり方を考えていって
そのうち半期とか一年ごとに、最も面白かった展示に賞を与えるコンペを作りたいです。
スポンサーがつくようになるといいですね
以上
書き手は私を含め数名。
今週から、展覧会に星で評価を付け始めた。
これはどういうことか。
展覧会や作品それ自体を5段階評価で表すことはとても暴力的です。
そしてリスクが伴います。
だからやり始めました。
リスクの取れない言論活動なんて僕は意味がないと思う。
あとつけくわえるのであれば
展覧会を評価の対象とする、コンペがあればいいのになと最近思うんですね。
写真集に対して評価がなされる賞があるのかどうか知らないですけど
(木村伊兵衛賞は、写真集を含む写真活動らしい)
日本の芸術の賞に限って言えば見たこと無いですね。
レンタルで金払って展示する人にもっと緊張感を持って欲しいなと
思うんです。売れる作品と面白い作品は違うのですから
売れなかったから駄目ではなく、売れなくても面白いもん作る人に
なおかつ、面白い展示する人に何らかの評価がついていいと思うんですが
まあ関西では評価は口コミ程度で、スピードも遅い。
現代美術のスピードの遅さは致命的じゃないか。
なんか漠然と書いていますが、そんな理由です。
現在の批評サイトですこしづつやり方を考えていって
そのうち半期とか一年ごとに、最も面白かった展示に賞を与えるコンペを作りたいです。
スポンサーがつくようになるといいですね
以上
2009年03月18日 22:29
ブログリニューアルのまず一発目としてブログのタイトル変えました。
「ずっと途中」です。意味は今やっていることはまだ途中なんですよ、って言っておけば、完成を保留に出来るからです。そもそも完成に興味ないのは、昔からの悪い癖でして、良くて8割、悪くて5割ぐらいの途中のままアウトプットしてしまえれば、そこからなんか生まれるんではなかろうかという期待を常に持っているからです。自分の望むように完成させるのではなく、自分が想像も出来なかったものを自分でも見たいんでしょうね。だから現在の文章も半分自動筆記見たいに書いています。結論はいつも先送り。だから私は、他人と何かやることに非常に興味がある。自分自身に興味が無いし(自分は人間関係の中から、結果的に決まります。)、動機も無いから、他人の欲望に自分がどう関わるかをいつも考えている。企画画廊をやるのも、自分の好きな作家が、何をモチベーションにして、どこに向かおうとしているか知りたいからで、知ったら、自分はどのようにそこに関わっていけるかを考える。でもその為には自分のスキルなり、立場なりを明確にしておく必要があります。それはほんとわかりやすければ分かりやすいほど良いでしょう。金持ってるとか、ギャラリー持ってるとか、文章かけるとか、かっこいいとか。人間対人間の場合、いかにして相手を利用するかというのが基本的な関わり方だと思います。(根暗)。誤解されたくないので、少し説明しますけど、これはネガティブな意味で使っているわけではなくて、私はそうであるならそうであるだけで、プラスでもマイナスでもないと思っています。「人は死ぬんだ」これが事実なら、肯定も否定も出来ないでしょう。事実は事実。そこにどう向き合うか、という態度がネガティブかどうかを決めるのだと思います。だから、いかにして相手を利用するか、というのが私の人間観だとして、その上にどんな関係を築くかというのが重要ですね。私は、「だからこそ」あるいは「けれども」、お互いを利用して面白いことするんだ、と思っています。ビジネス風に言うとwin-win(両者とも勝つ)の関係。
で、今これから、私が何をしようとしているか少しまとめてみたいと思います。
1、美術批評
数年前に直島で見た、ジェームズタレルの作品、家プロジェクト、安藤忠雄建築が最高で、その時の衝撃が今も残っている。陳腐な表現だが、世界が崩れる音がしたとはこの事だった。中学生の時読んだ「蝿の王」(作者忘れた)や太宰治、それからもっと後に読んだ田口ランディ「コンセント」「アンテナ」「モザイク」、舞城王太郎、映画ならウォンカーワイ「恋する惑星」、「アメリカンビューティ」、ダウンタウンやラーメンズコンドルズ、そういうものに出会えた喜びっていうのは、そうそう忘れるものではなくて、麻薬やギャンブルと一緒で、その快楽の大きさを引きずっている。だから、もう少しいろんなもんを見ていたら、前より大きなビッグウエーブがやって来るんではないだろうかという期待があるんですね。なおかつ、いろんな縁があって私の周りには美術に関わっている人間がたくさんいる。皆才能豊かで、これから何をしてくれるのか楽しみにしている。で、そこに自分自身が関わり、一番先に(アーティストの次に)その興奮を体験したいと考えている。長谷川裕子が、石上純也のあの銀の大きな風船が上る時、「この瞬間は誰にも譲れないですね」と言っていたのを、私はその瞬間をこそ、観客にプレゼントして、美術のとりこにさせるべきキュレーターとしてあるまじき行為だと考えたが、キュレーターならだめでも、批評家ならそこらへん何とかなるんじゃなかろうかとも思っている。というような複合的な理由で批評という行為が、私にはあっているんじゃないかという、期待と確信があるわけです。
2、ギャラリー
これは福田和也があるシンポジウムで言っていたが、批評家は自分のメディアを持っていなくてはだめだとのこと。それと同じ考えで、文章を書いて発表するメディア(ブログ、紙媒体)だけではなく、面白い作品そのものを発表する場所が必要じゃないかということです。展覧会を一緒に作りながら、作家と話しをするのはやっぱり面白いですしね。自分でギャラリー持たなくても、作家はどっかでやるのだからという意見ももちろんその通りだと思います。でも、あってもいいのだと思います。いわゆる角川的メディアミックスです。
3、商売
BARは、今使っているスペースにあるからやっているんですけれど、それはそれで面白いです。しかしそこでお金を稼いで暮らして行こうという気はないんですね。ではギャラリーか、というとそうでもなくて、作品を販売するというのも現実的な障壁がそびえていますから、わざわざそこに挑まなくても良いと思っています。もちろん才能ある作家の為に、面白い作品が出来る可能性の為に、作家にお金を(つまり時間を)提供できれば良いと思うのですが、これはほんとに難しいです。美術を商売にするというのは茨の道でしょう。レンタルギャラリーはそもそも批評的な観点が曖昧になるのでやりたくないし、それと同様売れる作品を扱うというのも無理。私は芸術は社会的に価値があり、必要だと思っています。そして、社会的に価値のあるものは、その対価としてお金が支払われるべきだとも。しかしそれが作品の売買でなくともいいはずです。例えば、パトロン、企業がその作家の価値を認めて作家に給料を払う。国が払う。誰かが払う。私が払う。たとえ私一人でも、その価値を認めて、お金を払えば、その芸術の社会的価値は成立します。どんなくだらない牛乳瓶のふたでも、それを拾ってポケットに入れる奴がいれば価値は発生する。そういう考えです。で、商売をしたいというのは、私がお金持って、好きな作家に、好きなように金払えばいいじゃんということです。美術的には何の解決にもなっていないのかも知れないですけど、それもひとつの案という事で。それとは別に、私と同じように、へんてこりんな価値観を持っている(お金も持っている)人間を探して、支援してもらうというのがありますね。王道ですね。こっちも同時にやるべきでしょう。一点突破が良いか、可能性を開いておく方が良いかは意見が分かれるところでしょうが、私は現時点では後者を選びます。
具体的に、何の商売をしようかというところですが。28を目前にしてまだ試行錯誤しております。面白い事をするのと金を稼ぐのどっちが先か、と問われたら、「どっちも!」とアホになった振りをして、今はお茶を濁しましょう。
4、結婚
結婚は現実との戦いです。結婚して子供を養う為には、安定した収入が必要だと考えます。じゃあ美術なんか捨てて就職すれば、という皆の声援が聞こえてくるようです。おそらくここまで読んでいる人はほとんどいないでしょうから書いていますけど、就職って面白いんですかね。あらゆるものから自由になることが私は一番大切で、限られた時間で、何をなすべきか考えていたら就職じゃない気がするんですが、どうなんでしょう。もちろん、どんな仕事でも、おもしろい部分はありますよ。でもルーティーンになったら終わりでしょう。いや、言いたい事はそうではないのだけど、いや、難しいです。えと、いかに自分の時間を他人に売らないか、そうしたいなと思います。その為には稼がなくてはいけないですよもちろん。稼ぐシステムを作らないといけない。私はまだお金を持った時に見える景色を知らないですからね。いやーこの文章は恥ずかしい。おそらく地位や名誉や富や美は、それを持ったものにしかわからないことがあると思うんです。それらに対する単純なあこがれでもあるし、好奇心でもある。
その時の心境なんかが想像出来ないですから、気になりますよね。想像できたらそれは終わりです。多分興味なくなるでしょう。そんなこんなで青臭い、人生経験の少ない私にはまだなんにもわかっちゃいないわけですが、結婚というのはひとつの象徴で、現実といかに向き合うか、それはそろそろ考えなくてはいけない問題だと思います。
5、面白い事
面白いもの見たい。したい。増やしたい。
追記:後半テンションが切れました。
櫻岡聡
「ずっと途中」です。意味は今やっていることはまだ途中なんですよ、って言っておけば、完成を保留に出来るからです。そもそも完成に興味ないのは、昔からの悪い癖でして、良くて8割、悪くて5割ぐらいの途中のままアウトプットしてしまえれば、そこからなんか生まれるんではなかろうかという期待を常に持っているからです。自分の望むように完成させるのではなく、自分が想像も出来なかったものを自分でも見たいんでしょうね。だから現在の文章も半分自動筆記見たいに書いています。結論はいつも先送り。だから私は、他人と何かやることに非常に興味がある。自分自身に興味が無いし(自分は人間関係の中から、結果的に決まります。)、動機も無いから、他人の欲望に自分がどう関わるかをいつも考えている。企画画廊をやるのも、自分の好きな作家が、何をモチベーションにして、どこに向かおうとしているか知りたいからで、知ったら、自分はどのようにそこに関わっていけるかを考える。でもその為には自分のスキルなり、立場なりを明確にしておく必要があります。それはほんとわかりやすければ分かりやすいほど良いでしょう。金持ってるとか、ギャラリー持ってるとか、文章かけるとか、かっこいいとか。人間対人間の場合、いかにして相手を利用するかというのが基本的な関わり方だと思います。(根暗)。誤解されたくないので、少し説明しますけど、これはネガティブな意味で使っているわけではなくて、私はそうであるならそうであるだけで、プラスでもマイナスでもないと思っています。「人は死ぬんだ」これが事実なら、肯定も否定も出来ないでしょう。事実は事実。そこにどう向き合うか、という態度がネガティブかどうかを決めるのだと思います。だから、いかにして相手を利用するか、というのが私の人間観だとして、その上にどんな関係を築くかというのが重要ですね。私は、「だからこそ」あるいは「けれども」、お互いを利用して面白いことするんだ、と思っています。ビジネス風に言うとwin-win(両者とも勝つ)の関係。
で、今これから、私が何をしようとしているか少しまとめてみたいと思います。
1、美術批評
数年前に直島で見た、ジェームズタレルの作品、家プロジェクト、安藤忠雄建築が最高で、その時の衝撃が今も残っている。陳腐な表現だが、世界が崩れる音がしたとはこの事だった。中学生の時読んだ「蝿の王」(作者忘れた)や太宰治、それからもっと後に読んだ田口ランディ「コンセント」「アンテナ」「モザイク」、舞城王太郎、映画ならウォンカーワイ「恋する惑星」、「アメリカンビューティ」、ダウンタウンやラーメンズコンドルズ、そういうものに出会えた喜びっていうのは、そうそう忘れるものではなくて、麻薬やギャンブルと一緒で、その快楽の大きさを引きずっている。だから、もう少しいろんなもんを見ていたら、前より大きなビッグウエーブがやって来るんではないだろうかという期待があるんですね。なおかつ、いろんな縁があって私の周りには美術に関わっている人間がたくさんいる。皆才能豊かで、これから何をしてくれるのか楽しみにしている。で、そこに自分自身が関わり、一番先に(アーティストの次に)その興奮を体験したいと考えている。長谷川裕子が、石上純也のあの銀の大きな風船が上る時、「この瞬間は誰にも譲れないですね」と言っていたのを、私はその瞬間をこそ、観客にプレゼントして、美術のとりこにさせるべきキュレーターとしてあるまじき行為だと考えたが、キュレーターならだめでも、批評家ならそこらへん何とかなるんじゃなかろうかとも思っている。というような複合的な理由で批評という行為が、私にはあっているんじゃないかという、期待と確信があるわけです。
2、ギャラリー
これは福田和也があるシンポジウムで言っていたが、批評家は自分のメディアを持っていなくてはだめだとのこと。それと同じ考えで、文章を書いて発表するメディア(ブログ、紙媒体)だけではなく、面白い作品そのものを発表する場所が必要じゃないかということです。展覧会を一緒に作りながら、作家と話しをするのはやっぱり面白いですしね。自分でギャラリー持たなくても、作家はどっかでやるのだからという意見ももちろんその通りだと思います。でも、あってもいいのだと思います。いわゆる角川的メディアミックスです。
3、商売
BARは、今使っているスペースにあるからやっているんですけれど、それはそれで面白いです。しかしそこでお金を稼いで暮らして行こうという気はないんですね。ではギャラリーか、というとそうでもなくて、作品を販売するというのも現実的な障壁がそびえていますから、わざわざそこに挑まなくても良いと思っています。もちろん才能ある作家の為に、面白い作品が出来る可能性の為に、作家にお金を(つまり時間を)提供できれば良いと思うのですが、これはほんとに難しいです。美術を商売にするというのは茨の道でしょう。レンタルギャラリーはそもそも批評的な観点が曖昧になるのでやりたくないし、それと同様売れる作品を扱うというのも無理。私は芸術は社会的に価値があり、必要だと思っています。そして、社会的に価値のあるものは、その対価としてお金が支払われるべきだとも。しかしそれが作品の売買でなくともいいはずです。例えば、パトロン、企業がその作家の価値を認めて作家に給料を払う。国が払う。誰かが払う。私が払う。たとえ私一人でも、その価値を認めて、お金を払えば、その芸術の社会的価値は成立します。どんなくだらない牛乳瓶のふたでも、それを拾ってポケットに入れる奴がいれば価値は発生する。そういう考えです。で、商売をしたいというのは、私がお金持って、好きな作家に、好きなように金払えばいいじゃんということです。美術的には何の解決にもなっていないのかも知れないですけど、それもひとつの案という事で。それとは別に、私と同じように、へんてこりんな価値観を持っている(お金も持っている)人間を探して、支援してもらうというのがありますね。王道ですね。こっちも同時にやるべきでしょう。一点突破が良いか、可能性を開いておく方が良いかは意見が分かれるところでしょうが、私は現時点では後者を選びます。
具体的に、何の商売をしようかというところですが。28を目前にしてまだ試行錯誤しております。面白い事をするのと金を稼ぐのどっちが先か、と問われたら、「どっちも!」とアホになった振りをして、今はお茶を濁しましょう。
4、結婚
結婚は現実との戦いです。結婚して子供を養う為には、安定した収入が必要だと考えます。じゃあ美術なんか捨てて就職すれば、という皆の声援が聞こえてくるようです。おそらくここまで読んでいる人はほとんどいないでしょうから書いていますけど、就職って面白いんですかね。あらゆるものから自由になることが私は一番大切で、限られた時間で、何をなすべきか考えていたら就職じゃない気がするんですが、どうなんでしょう。もちろん、どんな仕事でも、おもしろい部分はありますよ。でもルーティーンになったら終わりでしょう。いや、言いたい事はそうではないのだけど、いや、難しいです。えと、いかに自分の時間を他人に売らないか、そうしたいなと思います。その為には稼がなくてはいけないですよもちろん。稼ぐシステムを作らないといけない。私はまだお金を持った時に見える景色を知らないですからね。いやーこの文章は恥ずかしい。おそらく地位や名誉や富や美は、それを持ったものにしかわからないことがあると思うんです。それらに対する単純なあこがれでもあるし、好奇心でもある。
その時の心境なんかが想像出来ないですから、気になりますよね。想像できたらそれは終わりです。多分興味なくなるでしょう。そんなこんなで青臭い、人生経験の少ない私にはまだなんにもわかっちゃいないわけですが、結婚というのはひとつの象徴で、現実といかに向き合うか、それはそろそろ考えなくてはいけない問題だと思います。
5、面白い事
面白いもの見たい。したい。増やしたい。
追記:後半テンションが切れました。
櫻岡聡







