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花岡伸宏個展 批評文(ネタばれ注意)

2009年04月11日 17:06

花岡伸宏個展に合わせて書きました、批評文を公開します。
ネタばれ、というか、本来は作品を見る前に文章を読むべきではないと思うのですが、もう見られた方、見にこられない方の為にここにアップします。





花岡伸宏

「重さ」と「軽さ」

彫刻は絵画と違い、触覚的であり、且つ三次元的で、鑑賞者と同じ空間に存在しているリアルなものである。それは、我々と同じようにどこまで行っても重力から逃れられない。「重い」ものである。

そして左肩は、ずれ落ちる。

ウサギを抱いた少女がそこには立っている。ウサギの目は獰猛かつ虚ろだが、少女はその白く柔らかい動物に頬を寄せ、しかし何の関心もなさそうに微笑を浮かべている。そして彼女の左肩はずれ落ちる。周りの群集をよそに、少女だけがそれに気付いていない。けがれ無く、世界の何に対しても疑いを知らぬ表情。もしもこれが広島の路上においてあれば「祈り」とでも名づけられていたのではないだろうか。あるいは「平和」とでも。

これが第2の「重さ」。

花岡伸宏は広島で生まれ、広島で育った。本人がその事と作品の関連性を積極的に語ることは無いのだが、僕は無縁ではないと思っている。過去の作品で執拗にモチーフとされている「仏像」「母子」「米」それらが広島から生まれたというのは言いすぎであるが、日本という国の普遍的な土着イメージであることは間違いない。倫理観と言い換えてもいい、農耕民族である日本人特有の、見えざるイデオロギーとしての宗教心。「母親に手を上げるなんて。」や「お米を残すと目がつぶれる。」それは、当たり前すぎて、例えば「人を殺してはいけません。」という感覚に似ている。
そして今回のモチーフが、「ウサギを抱いた少女」である。戦前、戦後という区別が一般的であるように、日本において第2次世界大戦、とりわけ広島に落とされた原子爆弾の影響が日本人の思想、共通イメージを作り上げているのは言わずもがなだ。そして、その反動として生まれた、なによりも「平和」を重んじる戦後教育。今回の個展において、今まで彼が作品のコアとして用いてきた、「仏像」「米」に代表される日本のイメージは、深化し、「広島」あるいは「平和」という日本の特異点へと着地した。彼にとって、そして我々にとって、原点にして、最果ての地。

何故彼がこういったある種日本的なイメージをもちいるのか。それは彼の作品が「重さ」と「軽さ」の振り子を軸としているからである。

ある種の感動は、シリアスとユーモアのギャップに存在する。映画を例に挙げると、名作と名高いライフイズビューティフルなどがわかりやすいだろうか。ユダヤ人の強制収容所に送り込まれた主人公家族、とても笑えるような状況ではないシリアスな場面で主人公が見せるユーモア、それが鑑賞者の感動を喚起する。笑いたいと泣きたいが同時に存在するようなアンビバレンツな状況がそこにはある。それと同様に彼の作品で見られる、「仏像」=仏教、「米」=アミニズム、神道、「母子」=家族、儒教、「ウサギを抱いた少女」=平和、戦後日本、が持つ本質的な「重さ」と現在的な(日本人の意識や生活、しきたりに内在化されていてその本来的な意味を失っているという意味の、)「軽さ」はすでにここに同時に存在していて、そして振り子のように往還運動をしている。振り子はその両極が遠ければ遠いほど、中心部の速度は速くなる。ギャップは深くなる。これが作品のモチーフの内部にある「重さ」と「軽さ」である。

そして、この作品にはもうひとつの「重さ」と「軽さ」の層がある。それはモチーフをどう扱うかといった、表現方法の、表面的な「重さ」と「軽さ」である。

彫刻が依存する重力的、つまりは彫刻という芸術がそのジャンルの誕生からずっと抱え込んできた問題としての「重さ」と、「平和」というモチーフが備え持つ同時代的、本質的「重さ」、そのふたつのいわばシリアスな「重さ」と、すべり落ちた左肩が米に刺さる事のある種ユーモアとして表現される、もしくは無自覚的に表現されているように見える「軽さ」である。ある人はこれをギャグと呼ぶ。ナンセンスでもいいかもしれない。しかしこれは、この作品がギャグであるという意味ではなく、すべり落ちた、左肩が、飯に、刺さる。というその言葉が、イメージが、状況が、ギャグなのであり、表現方法としての「軽さ」になっているということである。最近、chim↑pomというDQNアーティスト集団(言い換えると「ヤンキー」、関西で言う「やから」)が広島の空に、「ピカッ」という文字を飛行機の煙によって出現させて話題となったが、彼らの手法、表現方法にも似たものがある。シリアスな問題を、あえて、ギャグとして、ノリで、ユーモアとして、人々の嫌悪感を煽るようなやり方で表現してしまう。そして大人達は眉をひそめる。「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない。」

先の映画の例であげたように、ある種の感動はシリアスとユーモアの間に存在する。そして、彼の芸術は「重さ」と「軽さ」の間に存在する。
モチーフの内部に存在する「重さ」と「軽さ」。
モチーフの、あるいはファインアートとしての「重さ」と表現方法の「軽さ」。
この2層にわたる「重さ」と「軽さ」の往復運動が、彼の作品を、ひどく特異な、そして芸術としか呼ぶことの出来ないものにしている事は間違いない。逆に言うとこの「重さ」と「軽さ」の極端な振り子を持ちえないものは、彼に言わせれば、単なるつまらないギャグとなってしまうのだ。

何故左肩がずれ落ちなければならないのか。

それはやはり「重さ」と「軽さ」の象徴でしかないのだが、それでも、大人達は言うだろうか。
「あんなもんは単なる悪ふざけで、芸術ではない」と。

CPG代表 櫻岡聡

IMG_4085a.jpg


******
まだ批評と呼べるものではなく、解説の域を出ていない、つたない文章ではありますが
読んでいただきありがとうございます。

感想、批判、反論、受け付けます。櫻岡
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批評をかくために03

2009年01月09日 19:13

福田和也がその著作「甘美な人生」で柄谷行人についてこう言及している。
「柄谷氏の批評には『なぜ』という問いが欠けている。
といっても、この欠如をそのまま直接、柄谷氏への批判に結びつけることはできない。」
なぜなら「なぜ」という「問い」とその答えは、物事の超越性へとつながり、
氏の批評は超越的な物事の否定から出発しているからだ。

「解答は制度が与えるのに、彼はまるでそれを拒むところから問う」(文学について 柄谷行人)

まったく正しい。と思える。
のになぜか、このポイントが喉の奥をすっと下方に降りていかない。
恐らくは芸術に対する姿勢としての現在の自分の考えと上記の考えの間に差があり、尚且つ、決定的に間違っているのは自分の方であって、いち早く修正しなくてはならない気がしているからだ。
しかし、それが何かがわからない。

私の何が間違っているのか?

批評を書くために 02

2009年01月06日 17:38

やるべきこと
1、これだと思う人の全仕事を把握する。

誰が良いのか考え中。
今まで一番親しんできたのはサワラギノイだが、誰もが通ってきたドゥールーズ、ガタリは読むべきだろうか。そもそも「モダニズムのハードコア」を完読していないのでモダニズムからポストモダンへと進めないのでした。


メモ

2009年01月06日 17:27

「とはいえ、ひとつだけ確かなことがある。仮に芸術を語るうえでの『大きな物語』が終焉したとしても、ここの芸術作品を他のあらゆるイメージ群とともにいわゆる『カルチュラル・スタディーズ』の対象にすることなどできないということだ。」
「なぜなら、われわれは、その瞬間、価値判断をしたのであって、いかなるイメージをも文化現象として没価値的に考察しようとする『カルチェラル・スタディーズ』なるものとそれは原理的に背馳するからである。」
現代美術の教科書 P8-9 谷川渥

芸術作品は社会的な意味や有効性とは無関係に自立しており(そうでなくてはならず)、もし『カルチュラル・スタディーズ』の対象としてその作品が受容されるなら、それは芸術的に劣っているのだ。というようなことを上の文章の続きで書いている。「問われるべきは、やはり作品の質なのである。」だそうだ。

なぜここが引っかかっているのかというと、私の批評の基本的スタンスである「芸術作品の社会的な可能性の有無」と相反するように思えるからである。私の考えていることは、「カルチュラル・スタディーズ」が犯した間違いと一緒ではないのか。私個人の持っているイデオロギーの為に芸術を利用しているだけではないのか。そう思うからである。
モダニズム的な「芸術のための芸術」にまったく興味がないのも事実だが、90年代日本のとある思想家に「カルスタ」と揶揄された『カルチュアル・スタディーズ』、それを擁護するだけの根拠もない。今後の課題としてここに記す。

批評を書くために

2009年01月04日 12:39

批評を書くにあたり気をつけていることが幾つかあります。

1、社会とリンクする(批評の前提)
2、読み物として面白い、エレガント
3、芸術そのものになる

幾つかあると書きましたが、少し考えてみたら3つだけでした。
1は前回の記事で説明したので省略します。
2に関して、芸術作品の価値判断を論理の組み立てだけで再現するのは不可能であり、読者を感染させる(説得する)には論理では不十分だと思います。論理的に隙がなく正しいことを書いていたとしても、社会的可能性に向かうべき批評において、難解でターゲットを狭めてしまうような文章は意味がないということです。
なおかつ私はそういった堅苦しい文章が好きではないし、それはエレガントでない。
ついでに書いておくと、難解な文章は読者ではなく完全に筆者の問題であって、言ってしまえば能力不足です(申し訳ない)。
3の「芸術そのものになる」は今の私には遥か彼方の理想ですが、あえて挙げています。
批評として、絵画や映画や舞台や音楽など芸術に向かい合う時、批評は芸術である必要がある。というかそれ以外に方法がないと思います。芸術の本質である善悪や美醜ではない決定不能なもの(芸術的なもの)、いわば「謎」、それを謎のまま伝えようと思ったら、文章を通してその「謎」をもう一度ゼロから作り上げねばなりません。とてもとても大変なことですが、その覚悟が書き手には必要であると思っています。

とりあえずこの辺で。

批評とは何か

2009年01月03日 23:33

芸術或いは展覧会の感想文や分析と「批評」の違いについて、私は単純にこう考えています。
社会におけるその作品・作家・展覧会の可能性が(肯定であれ否定であれ)語られていたら批評。
それがないものが感想文や分析。

キーワードは「社会」。「同時代性」とでも言い換えられるかな。

価値判断をする為に方法論が確立されている必要があるとか
結局は個人の趣味志向に理屈をつけるだけじゃないかとか
いろいろあるでしょうが、そういうのはおいときましょう。
あまりそこにこだわると、芸術それ自体だけで完結してしまう。

大事なのは芸術ではなく
我々が生きている社会であり、生活なのです。
批評はそのためにこそあるべきでしょう。

テリー・イーグルトン『反逆の偶像 批評とは何か』
佐々木敦『批評とは何か 批評家養成ギブス』
という批評についての2冊の本が最近出たらしい。
あまり読む気はしないが、そのうち気が向いたら読んでみるかもしれない。
その前にロラン・バルト「エッセ クリティック」を読むべきか。
うーん、全然悩まない。



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