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メモ

2009年01月06日 17:27

「とはいえ、ひとつだけ確かなことがある。仮に芸術を語るうえでの『大きな物語』が終焉したとしても、ここの芸術作品を他のあらゆるイメージ群とともにいわゆる『カルチュラル・スタディーズ』の対象にすることなどできないということだ。」
「なぜなら、われわれは、その瞬間、価値判断をしたのであって、いかなるイメージをも文化現象として没価値的に考察しようとする『カルチェラル・スタディーズ』なるものとそれは原理的に背馳するからである。」
現代美術の教科書 P8-9 谷川渥

芸術作品は社会的な意味や有効性とは無関係に自立しており(そうでなくてはならず)、もし『カルチュラル・スタディーズ』の対象としてその作品が受容されるなら、それは芸術的に劣っているのだ。というようなことを上の文章の続きで書いている。「問われるべきは、やはり作品の質なのである。」だそうだ。

なぜここが引っかかっているのかというと、私の批評の基本的スタンスである「芸術作品の社会的な可能性の有無」と相反するように思えるからである。私の考えていることは、「カルチュラル・スタディーズ」が犯した間違いと一緒ではないのか。私個人の持っているイデオロギーの為に芸術を利用しているだけではないのか。そう思うからである。
モダニズム的な「芸術のための芸術」にまったく興味がないのも事実だが、90年代日本のとある思想家に「カルスタ」と揶揄された『カルチュアル・スタディーズ』、それを擁護するだけの根拠もない。今後の課題としてここに記す。
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