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ブログの方針

2009年03月18日 20:58

私はCPG:canary production galleryという企画画廊を運営する「ギャラリスト」であり、その企画をする「キュレーター」であり、アートにまつわる批評文を書く「批評家」であり、BAR超能力の「店長」でもある。しかし個人的には全ての仕事は「批評」だと思ってやっている。他人がどのように判断してもかまわないのだけれど、もう少しこれをわかりやすく出来ないかなとも思っている。

しかし、こういう場面ではギャラリストを名乗った方が、とか、こういう場合はアートライターで、とか、批評家って言えるほど批評書いてないなとか。問題は山積みで、それが、
その迷いが、このブログの更新をとめさせていたのだ!!!!!!!

mixiではくだらないことを書いてはいたんだけれど、mixiは仕事上利用しているからね。くだらなくてもいいんですよ。あと、argosっていう批評サイトもやっています。こっちは主に京都の展覧会のレヴューを書いています。展覧会を五段階評価で採点することにしました。お前のどこにそんな権利が!とお思いでしょうが、義務も権利も無いですよ。でもいいんじゃないでしょうか。やりたいんだし。権利は無いけど、責任は勝手に生まれますからね。責任さえどっかでとれば。
(文体がめちゃくちゃで読みにくいですね。リハビリだと思って許してください。)

mixi
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=7850000
argos
http://argos-blog.seesaa.net/

まあ、ミクシとアルゴスはやってることはっきりしてます。観客も見てて何の疑問も持たないんじゃないでしょうか。
問題はこのFC2ブログです。ではどうしましょうか。
といいつつも、答えは出ているんですけれどね。

答え→好きなことを書く。
このブログは僕の芸術や文化や批評にまつわる勉強の場所です。
超能力で行った過去のイベント、展覧会はいつかどこかでまとめます。

櫻岡聡

過去のイベント一覧(途中)

2009年01月28日 18:56

イベント

・BARキラル/「カガミノクニノキラル」展
・ただ君

展覧会
・No select exhibision
・児玉真人個展
・若木くるみ個展
・ホコロビノジカン

(途中)

「超能力」の可能性 序

2009年01月11日 02:56

「超能力があるかないかの論争が繰り返されるだけで、結局何も変わらない。」

スプーン曲げ少年として一時期メディアに取り上げられていた清田君という人物、彼をメインテーマとしたドキュメンタリー映画「職業欄はエスパー」と同名のルポルタージュ(角川文庫: 森達也)を見て(読んで)以来、「超能力」というものの存在に、私はとても魅力を感じている。
誤解を生む表現だが、「超能力」の可能性を信じていさえする。

何も誰もが潜在能力を活性化させれば、テレパシーが出来るはずで、それによって携帯がいらなくなって便利だね、しかし「サトラレ」的な問題やエックスメン対人間の構造が出来てややこしいねという話がしたいわけではない。ただ単純に「超能力」という社会にとっての異物(精神病も同様)を見つめることによって、何らかの意識されない社会構造?人間という存在?のような、もやもやっとしたものを、手に触れるきっかけにはなるのではないかと思っている。

出口は見えない。あるかどうかすらわからない。
しかし気付いたら入り口に立っていた。

まずは歴史的な事から調べてみようか。

批評をかくために03

2009年01月09日 19:13

福田和也がその著作「甘美な人生」で柄谷行人についてこう言及している。
「柄谷氏の批評には『なぜ』という問いが欠けている。
といっても、この欠如をそのまま直接、柄谷氏への批判に結びつけることはできない。」
なぜなら「なぜ」という「問い」とその答えは、物事の超越性へとつながり、
氏の批評は超越的な物事の否定から出発しているからだ。

「解答は制度が与えるのに、彼はまるでそれを拒むところから問う」(文学について 柄谷行人)

まったく正しい。と思える。
のになぜか、このポイントが喉の奥をすっと下方に降りていかない。
恐らくは芸術に対する姿勢としての現在の自分の考えと上記の考えの間に差があり、尚且つ、決定的に間違っているのは自分の方であって、いち早く修正しなくてはならない気がしているからだ。
しかし、それが何かがわからない。

私の何が間違っているのか?

批評を書くために 02

2009年01月06日 17:38

やるべきこと
1、これだと思う人の全仕事を把握する。

誰が良いのか考え中。
今まで一番親しんできたのはサワラギノイだが、誰もが通ってきたドゥールーズ、ガタリは読むべきだろうか。そもそも「モダニズムのハードコア」を完読していないのでモダニズムからポストモダンへと進めないのでした。


メモ

2009年01月06日 17:27

「とはいえ、ひとつだけ確かなことがある。仮に芸術を語るうえでの『大きな物語』が終焉したとしても、ここの芸術作品を他のあらゆるイメージ群とともにいわゆる『カルチュラル・スタディーズ』の対象にすることなどできないということだ。」
「なぜなら、われわれは、その瞬間、価値判断をしたのであって、いかなるイメージをも文化現象として没価値的に考察しようとする『カルチェラル・スタディーズ』なるものとそれは原理的に背馳するからである。」
現代美術の教科書 P8-9 谷川渥

芸術作品は社会的な意味や有効性とは無関係に自立しており(そうでなくてはならず)、もし『カルチュラル・スタディーズ』の対象としてその作品が受容されるなら、それは芸術的に劣っているのだ。というようなことを上の文章の続きで書いている。「問われるべきは、やはり作品の質なのである。」だそうだ。

なぜここが引っかかっているのかというと、私の批評の基本的スタンスである「芸術作品の社会的な可能性の有無」と相反するように思えるからである。私の考えていることは、「カルチュラル・スタディーズ」が犯した間違いと一緒ではないのか。私個人の持っているイデオロギーの為に芸術を利用しているだけではないのか。そう思うからである。
モダニズム的な「芸術のための芸術」にまったく興味がないのも事実だが、90年代日本のとある思想家に「カルスタ」と揶揄された『カルチュアル・スタディーズ』、それを擁護するだけの根拠もない。今後の課題としてここに記す。

批評を書くために

2009年01月04日 12:39

批評を書くにあたり気をつけていることが幾つかあります。

1、社会とリンクする(批評の前提)
2、読み物として面白い、エレガント
3、芸術そのものになる

幾つかあると書きましたが、少し考えてみたら3つだけでした。
1は前回の記事で説明したので省略します。
2に関して、芸術作品の価値判断を論理の組み立てだけで再現するのは不可能であり、読者を感染させる(説得する)には論理では不十分だと思います。論理的に隙がなく正しいことを書いていたとしても、社会的可能性に向かうべき批評において、難解でターゲットを狭めてしまうような文章は意味がないということです。
なおかつ私はそういった堅苦しい文章が好きではないし、それはエレガントでない。
ついでに書いておくと、難解な文章は読者ではなく完全に筆者の問題であって、言ってしまえば能力不足です(申し訳ない)。
3の「芸術そのものになる」は今の私には遥か彼方の理想ですが、あえて挙げています。
批評として、絵画や映画や舞台や音楽など芸術に向かい合う時、批評は芸術である必要がある。というかそれ以外に方法がないと思います。芸術の本質である善悪や美醜ではない決定不能なもの(芸術的なもの)、いわば「謎」、それを謎のまま伝えようと思ったら、文章を通してその「謎」をもう一度ゼロから作り上げねばなりません。とてもとても大変なことですが、その覚悟が書き手には必要であると思っています。

とりあえずこの辺で。

批評とは何か

2009年01月03日 23:33

芸術或いは展覧会の感想文や分析と「批評」の違いについて、私は単純にこう考えています。
社会におけるその作品・作家・展覧会の可能性が(肯定であれ否定であれ)語られていたら批評。
それがないものが感想文や分析。

キーワードは「社会」。「同時代性」とでも言い換えられるかな。

価値判断をする為に方法論が確立されている必要があるとか
結局は個人の趣味志向に理屈をつけるだけじゃないかとか
いろいろあるでしょうが、そういうのはおいときましょう。
あまりそこにこだわると、芸術それ自体だけで完結してしまう。

大事なのは芸術ではなく
我々が生きている社会であり、生活なのです。
批評はそのためにこそあるべきでしょう。

テリー・イーグルトン『反逆の偶像 批評とは何か』
佐々木敦『批評とは何か 批評家養成ギブス』
という批評についての2冊の本が最近出たらしい。
あまり読む気はしないが、そのうち気が向いたら読んでみるかもしれない。
その前にロラン・バルト「エッセ クリティック」を読むべきか。
うーん、全然悩まない。

美しき断絶

2009年01月03日 00:41

2年ほど前。そう、ちょうど芸術にまつわる活動を始めた頃です。批評をやりたいと思い、京都の展覧会をあれこれ見てまわると同時に、ブログなるものをはじめました。

あそことあそこを見に行った。面白かった。という、まるで空中に舞う塵芥のようなくだらないブログでしたが、個人的には、自分が持っている特質というか社会に対する興味がそのまま映し出され、批評って(或いは芸術のようなものって)人生を費やすに値するのではないかな、なんてぼんやりした思いを持つこともありました/あります。

そして昨年2008年です。
そのぼんやりした思いは、うねうねと蛇行した流れになり、東京、京都で展覧会を数本企画。雑誌でインタビュー記事や展覧会紹介などを執筆。BAR兼ギャラリーをオープン。など激動の一年でした。この活動の肩書きだけ見たら、キュレーター、アートライター、ギャラリスト、という格好良いんだか何なんだかわからん横文字が並び、節操なく見えますが、一点だけ言い訳させてください。

私は私の活動の全てが批評だと思ってやっている。

という事です。

展覧会であれ、ギャラリーとBARの経営であれ、芸術をめぐる言説であれ。すべては批評を志向している。もちろん至らない点は多々あります。分裂と分断が非効率にも見えるでしょう。しかし、志向性を持って混沌に挑む事、そこから飛躍は生まれるのではないか、そう思っています。

あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

櫻岡聡

お知らせ

2008年11月19日 07:04

*お知らせ1*
11月20日(木)は17:00~21:00くらいまで不在にしております。お気をつけあれ。

*お知らせ2*
以前のブログにも書いていますがもう一度乗せておきます。

11月末までにブログを移転します。
現在の超能力/CPGブログは11月末に完全閉鎖とします。

これからは
seesaaというプロバイダで
Canary Production Gallery /超能力 の展覧会情報、お知らせに絞って
情報を書きます。
現在は試運転中↓
http://canary-cpg.seesaa.net/

世間話はmixiのサクラオカあるいは超能力コミュに書きます。
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=7850000

長らくのご愛顧ありがとうございました。
そして、これからも宜しくお願いいたします

CPG/超能力代表 櫻岡聡



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